暑い!一寒一温も甚だしい

画像

( ̄□ ̄;)!!


今日の最高温度が17℃、


セーターを脱いだくらいでした。


あ”~、こうもお天気がころころと変わっちゃ、


次の登山日を決めればいいか迷ってるんだよ!



。。。



晴耕雨読ならぬ晴登雨奏の日々ですが、


うーん、


作曲のほうは自分でもびっくりするくらいはかどっていますから


登山を先にすべきか、曲を先にすべきか、


余計にまよっちゃうんだなァ。。


⊆((>ω<))⊇



合唱曲の新たな可能性を拓きだしつつある手応えが嬉しいあまり、


ふっと‥不思議な奇縁、


感慨に襲われちゃったんね。


(-σ-)



こんブログを読んで下さるお方々、


自分の人生の転機は、生きている人のさりげない言葉、


あるいはふと耳にした曲、


そして出くわした素晴らしい芸術作品だった、と


思い返してらっしゃることでしょうね。



‥‥


おれの不思議な奇縁は、やっぱし、没後259年も経ってもなお


世界的なヒットメーカーであり続ける大作曲家、J・S・バッハでしたんね。


(゜Д ゜;)



不思議でしよーがないんね、


バッハに2度も救われたおれの人生を振り返ってみて。



一度目は、


奇跡的な歌声を持ちながら、なんせ先天性聴覚障害を負ったため


偏見にさいなまれ、幼児時代に天才的な歌唱能力を見せてもなお


当時は1960年代ですもん、


そして発声器官の異変のため、


はからずも自分の声にコンプレックスを持っちゃって


音楽から遠ざかってしまっていたときでした。


11歳のときだっけ、当時の偏見と戦って援助してくれた皆さんのおかげで


聾学校から普通学校へ転入学できてね、


まァ、おれの関心は音楽より、漫画、絵画、文学などに向かっていたんでした。


(-σ-)



補聴器をつけること自体が恥ずかしくてしようがなかった、


その頃は。


ですからつけるときは、映画、音楽を聴くときにとどまっていたのでした。


‥‥


1984年伊丹十三監督「お葬式」を見に行ってね、


何故か、バッハのG線上のアリアに、


人生でかつてにないほど魂が揺さぶられちゃって、


そんときは「音楽ができない、歌えない」と思い込んじゃってしまっていたおれ自身、


唖然として、


「は?おれ、こんなに音楽が分かってた?」



(-σ-)



誤解を招かないように言っとかなきゃなんないけどさ、


いいえ、


おれの家族、知人たちがみなおれの怖るべき声、音楽的才能を知っていてね、


どうも本人は生まれたときから両耳が塞がれちまったんだから、


「も~ッ!本人は耳が聞こえなくて、歌えない、音楽が出来ないと勝手に思い込んじゃってるんだ。。


いい補聴器がないし。


本人がその気にならなきゃどーにもなんないか!‥」


とやきもきして、


ずーっとおれ自身の自覚を待っていたんですよ。


ま、おれも誤解しちまったことがあるけどね、


でも皆さんの援助と、何よりおれ自身の自主性を頑なに信じて待ってくれた心に


感謝したいくらいなんですよ!



それにしても今さら思い出すと、


やっぱし、J・S・バッハのG線上のアリアを聴いて魂が揺さぶられたことは


不思議な奇縁としかいいようがないんや。


正確に覚えてないけどね、


その一年後だっけ、


「おれはいったい何者だ?」と自分の人生に悩んじゃって、


その曲を思い出して、


「は?おれ、音楽が分かってたっけ?‥まさか!?」


と補聴器を日常的に携帯して、みずから聴能訓練を始めたんですよ。



(>ω<)


わずか半年後に自分の歌声とプロ歌手の声を


聴き比べてみてね、


「あ?おれの声域はバリトンかと思ったけど‥


まさか‥」


と楽器店の展示ピアノの前に座って、


ほら!自分の声域を確かめるためにはピアノの鍵を押しながら声を出すと、


ビリビリビリッと全身が共鳴するでしょ、


女声の高音部と男声の低音部、


そんときね、


まさか、まさか、と思いつつピアノの鍵をいっぱい高くとってみて、


声を出してみたり、


ピアノの鍵をいっぱい低くとってみて‥



(゜Д ゜)



自分でも頭が空白になっちゃって、


「自分の声が怖い!‥いったい神様がおれに何をやらせようとしてるんだ?」


と苦悩したんです。



(-σ-)


そして


J・S・バッハに救われた二度目のときは‥



作曲を覚えて、


なんせ身元にピアノ、ギターなどの楽器がないんだし、


ただ楽譜だけでした。


作曲家として出発したのはちょうど33歳のときでした。


本当に遅い出発ですね、


いわゆる天才の作曲家たちとくらべてね。



(-σ-)


2003年1月だっけ、


コンピューターのMIDIで自分の楽譜を演奏することを覚えて、


これまでつい一度ぞ演奏の機会もなかった楽譜を次から次と音にしていたんでした。


しかしね、


ポップスのデュオのつもりで書いたある曲が、


なんか自分でも狐につままれた心地になるばかりで、


何度も演奏してみて


余計に頭がこんぐらかって、


「いったい、自分で書いたのに!こんなに分からないなんて!


この曲は何だ?」


と本当に苦しんでいたんですよ。


ちょうど数日前に聴いたCD―そう!パイヤール指揮・演奏によるJ・S・バッハ「音楽の捧げもの」を


思い出して、何やら一条の光明を見出したんですよ。


「待ってよ?


バッハの曲を序曲、間奏曲1、間奏曲2、終曲代わりにして、


おれの曲を三部に分割してその合間にさしはさんでみたら?」


とひらめいたんですよ。



(゜Д ゜)



その音楽ビデオは現在どこにも公開していませんが、


ご視聴されたお方々ならすぐに思い当たるはずでしょうね、


なんせ250年ぶりの魂の競演ですからね。



この瞬間、おれの作曲家の天命を初めて知ったんだ、


そしてJ・S・バッハはおれ自身にとって何者であるか―


‥‥


バッハとの約束を果たした声楽と管弦楽作品、


おれ自身の40代の最高傑作でもある鳥のオペレッタ「里子の縁結びの後家」を


ついに完成したのは


その3年後でした。



(>ω<)



J・S・バッハとの不思議な奇縁、


影響を受けたとか、そーゆー類の話とは全然ちがう、


むしろ自分の音楽的才能の規模、質、‥おこがましいかも知れないが


歴史的に位置づけられるスタンスなどを


知るのにうってつけの鏡、とも言い換えればいいかも知れませんね。



(>ω<)



おれの才能を見くびって、さんざと利用して、


現世の権力に狂っちまっている連中どもなんか、豚以下、


いや、虫けら以下の存在、として


侮蔑の念がこみあげてくるのも当たり前でしょ。


J・S・バッハはおれを二度救って、人生の正しき道を指し示してくれた事実の前じゃ、


その連中には


「いっそ人類絶滅しちゃえば?」と


叫び散らしたくもなってくるのも道理でしょう。



(>ω<)


すんませんね、


齢50ともーいいとこのオヤジなんで、


あと何年生きられるか分からないけど、


本当におれ自身の人生の転機はJ・S・バッハだとは、


しみじみと不思議な奇縁を感じずにいられませんね。


きっと天国からバッハさん、


現在の精力的なおれの音楽活動を


嬉しそうに見守ってらっしゃることでしょうね。


(>ω<)



いってぇ、歴史的、歴史に名を残すこと、歴史に名が残ること、


って。。


何だろ?


てめぇ=らぁの私利私欲をすり替えてるだけなんだろ。


後世の判断にゆだねるべきを、


てめぇ=らぁの口で


「歴史に名を残す出来事だ!」と


やいやい言いはやしたてるなんて、


醜悪以外の何者でもない。



だから、


虫けら以下なんだよ。。



(>ω<)



現世の醜いかぎりのゴタゴタなどに耳をふさいで、


こんから魂の対話―


そう‥


音符は魂のDNAというか、


一音符ごとに


自分でも未知なかぎりの世界の一端を


覗き見て、


苦しみ、考え抜き、


自分のあらゆる想定をくつがえす出来栄えに


仕上げていくって、


かけがえのない仕事ですね。



(>ω<)


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