言葉で音楽を奏でる‥私の詩作はかたつむりの歩み

歌詞と詩はどう違うか。かくいう私とても鳥のオペレッタを完成するまで、その違いに疎かったともいえる。

クラシック声楽には、Recitativo(朗唱)、Aria(歌唱)の伝統的な声の使い分けがありますね。

もし美声のオペラ歌手が名詩を朗読するとしたら、どうしても美声に耳が奪われやすく、言葉そのものの美しい響きを聞き逃しやすい面は否めないですね。
「声より詩を聞きたいんだよ!声を抑えればいい」
と不満を抱こうものならば、ほら、DVDか舞台でよく見るオペラ歌手の演技はどこか仰々しいわけ。

しかし俳優こそは言葉そのものの美しい響きを「歌うように語って」奏でることの名手なのだ、とかなり遅まきながら気づいたのです、音楽ビデオで朗読、鳥ドラマで声優の仕事をしてからのことでした。

まだそれでも韻文と散文はどう違うかの問題が残っておりました。

歌で話をつなげる、オペラ台本におよそ1年くらい時間をかけて、そして歌手、俳優をともにこなしながらひとりで3時間5分の歌劇を繰り広げるという仕事を終えてみて、私の中でようやく答えが見つかりました。

鳥のオペレッタ完成直後、ほどなくして7年越しの特殊編成の室内楽組曲を完成させようとして、ほぼ同時に朗読入りの音楽ビデオを手がけたのです。

韻文と散文の違いについて私なりに見つけた答えは、
ほかでもない、推理小説の祖であるエドガー・アラン・ポーがまたボードレールとマラルメなどのフランス象徴派詩人に大きな影響を与えたともいわれるすぐれた詩人の顔を持ち、こう言ったことに尽きます。

「言葉に音楽がつくと詩であり、音楽のない言葉は散文にすぎない」(加島祥造氏の引用)

実作でようやく形になりかけた私なりの考えを、偉大なる詩人ポーの英詩の朗読で実践した動画をお目にかけます。

「ポーの英詩『あのみずうみ、――に』」


オカリナの曲を「逆振り付け」してBGMっぽく流したのです。

英語の分からないお方のために、加島祥造氏の訳文をかかげましょう。(岩波文庫版から)

あのみずうみ、――に

ごく若かったころ、ぼくはよく
広い野にさまよっていて、ひとつの
何よりも愛する場所を見つけだした。
それは野の果にあるみずうみ――
岸辺を黒い岩がかこみ、高い松林のそびえるその
美しい淋しさを、何よりも愛したのでした。

しかしその場所の上に、「夜」のとばりが
いちめんにおりはじめて、あの
怪しい風が吹きすぎて
悲しい歌をささやく
すると――ああ、そのみずうみは
孤独な怕(おそ)ろしい顔にかわる。

でもその怕ろしさは恐怖ではなくて
慄えおののくような喜びなのでした――
その感じは、どんな財宝がそそのかしても
こうだと説明できないものです
また「愛」でさえだめ――「愛」があなたの愛だとしても――

「死」がこの毒のこもるさざ波に
ひそんでいて、入江には墓地があり
それは孤独な空想で
自分を慰めるひとにふさわしいところです――
あのころの孤独な魂は
あんな陰気なみずうみを、
  楽園になしえたのでした。


こうは見えても、原詩の音楽性をそこなわないように意味明瞭な朗読をするのがきわめて難しかったのです。
とくに、第三行目に英語でも破格的な表現、The which I could not love the less――(直訳すれば「より少なくは愛せない」)をどう読むかで、手を焼かせられたものです。

そこは歌手なんかより、俳優の腕の見せどころですよ。
意味の通じにくいところを、言葉そのものの音楽性を出しながらどう聞かせるかで。

ですから、声がよいかの次元ではなく、声の演技力にかかっていますね。

そういうわけで、私はすっきりしたものですよ。
俳優の声のおかげで、クラシック声楽の伝統的な因襲から解放された思いです。

もちろん、俳優の声を使った名曲があります。
たとえば、メンデルスゾーン「真夏の夜の夢」(もっとも劇伴として作曲されたものですが)、
シェーンベルク「ワルソー収容所の生き残り」など。

では、歌詞と詩はどう違うか?という問いが残っていますね。

‥‥うーん、ポップスの例をみますと、
強いていえばそのひとの声で初めて完成される言葉、というのが歌詞というものじゃないかな、たとえ音程がちゃんととれなくてもその声の表情でダントツの存在感を持ち始める言葉は歌詞にあたるかな、
と私が考えるのです。

だってブルースはすごいんだろ。
とっても大好きだもん。

しかしながら、5歳まで言語習得が遅れたからこそ天性の抜群たる音感を生かして、言葉への愛着をかなり強く持っているので、詩作を続けている私としては、
やはりここで言葉の「音楽性」を追求したい気持ちから、詩を選ばざるを得ませんね。

面白いことに、曲作りはトランス状態に入りやすいとでもいうか、タッタッタタァーッと神速のスピードで曲を書いちゃうんですね。
それにひきかえて、詩作の歩みは、まさしくかたつむりのようにのろいんですよ。

「詩は書くものではなく、書かされるものである」という持論を、以下のブログ記事に詳しくのべてあります。
http://seijikaraiscornucopiae.at.webry.info/200703/article_36.html

記事でみずから申しているように、「詩を書こう、書こう」と思ってはいけないんだ。詩のほうから逃げちゃうから。

そのため、「待ってはつかまえる」、「つかまえては放す」、「放しては待つ」、‥‥みずから嘆かわしいくらいのろいペースで詩作を進めている始末なんです。

かたつむりの歩みでも美しい瞬間がありますね。
ちょうどいい動画もありますから、お時間があればどうぞ。

ピアノ曲No.16"Regardless Measures of Soul"






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